読書メモ:ウィリアム・ギャディス『JR』
はい、1年近くブログをほったらかしてしまいました。
かっこ悪いですが言い訳をしますと
・去年の夏に読書会のレギュラーメンバーであるAさんちに赤ちゃんが生まれたので数か月だけ読書会をお休みにしようとする
・そうしたら去年の秋に私自身が結婚することになり、秋から冬にかけて入籍→引っ越しと慌ただしく過ごす
・引っ越しが終わりやっと一息ついたと思ったら仕事の都合で私だけ引っ越すことになり、新婚なのに週末婚になる
という怒涛の展開があったためです。
これはブログを放置していても仕方ないね(白目)
ですので洋書どころか和書もあんまり読んでいなかったのですが、何を思ったか入籍の直前くらいからウィリアム・ギャディスの『JR』を再読していたので(もともと2018年の発売直後にすぐ買って一度は読んでいた)、久しぶりのブログ更新としてその感想文でも書くことにします。
なお、同じころに配偶者からオーウェルの『一九八四年』を借りており、2作を並行して読んだところ新しい発見があったため、その感想となります。
わりとがっつり2作のネタバレをしているので、これからどちらかでも読もうとしている方は注意してください。
☆☆☆
まず次の3つの文章を読み比べてほしい。
①演壇の上でお馴染みの決まり文句(...)を機械的に繰り返している退屈な話し手を見ていると、しばしば生きた人間ではなく、ある種の人形を見ているような不思議な気持ちにとらわれる。光線の具合で話し手の眼鏡が反射し、後に目を持たない空っぽの円盤のように見える瞬間に、その気持ちはより一層強くなる。
②座っている向きのせいでめがねが光を反射しているため、ウィンストンには目の代わりに空白の円盤が二つ見えるだけ。
③太陽の光が眼鏡のレンズに正面から当たり、うつろな反射でレンズの背後の生命は搔き消されたが(...)
①はジョージ・オーウェルのエッセイ『政治と英語』(こちらから日本語訳が読める)、②は同じくオーウェルの小説『一九八四年』(ハヤカワ文庫、高橋和久訳、84ページ)、③は『JR』(国書刊行会、木原義彦訳、39ページ)から引用したものだ。
発表された年は①が1946年、②が1949年、③が1975年である。
①のエッセイにある、光の反射が眼鏡を円盤のように見せるとき背後の生命が消えたように感じられるという比喩が、②と③では小説の中に落とし込まれている。
『JR』には過去の文学作品からの引用が数えきれないほどあるが、③もまた、オーウェルが二度も使ったお気に入りの表現を意識しているのだろう。
ついでにいうと『JR』133ページの
話は既にくそややこしいことになっとる、左翼マスコミが二足す二を五にして報道しやがった(...)
という箇所も『一九八四年』を参照していると思われる。
(『一九八四年』において、後述する「二重思考」を象徴する2+2=5という矛盾した計算式は随所に現れる)
『JR』は邦訳で二段組892ページにも及ぶ大作であり、その形式も内容も非常に個性的でさまざまな切り口から紹介できそうなのだが、今回はたまたまオーウェル作品と並行して読んだということもあり、オーウェルからの影響を意識しながら読んで気づいたことについてまとめたい。
☆☆☆
『JR』はほとんどが会話文から構成されている小説だ。
場面転換を示す情景描写や人物の仕草を表す文章はときおり挟まれるものの、基本的にはそこに誰がいて発言しているのか説明されないままの会話が、ときどき挟まるラジオやテレビの音声も交えながら切れ目なく続く。
それなのに会話の内容は、1970年代前半のニューヨークを舞台に、ある一族が所有する会社の株の相続問題、地元中学校で起こる助成金やストライキ等を巡るトラブル、金銭問題や家庭問題で創作に集中できない芸術家たちの苦悩、そして、11歳の少年であるJRが音楽教師のエドワード・バストをこき使いながら企業買収を繰り返してJR社を拡大していく模様など、主にお金を巡る複数のプロットを反映した複雑なものになっている。
したがって読者は、発言内容や口癖からこのセリフは誰が誰に向かって発しているのかを推測しながら各プロットがどう展開しているのか読み解いていく必要がある。
こう書くと難解な小説のようだが、一人一人の性格や発言は一貫しているので主要人物の行動原理だけでも把握してしまえば筋は追いやすくなる…と思う。
その行動原理というのは大まかにいって二つに分けられる。
一方はJRのように金儲けを追求するグループ、もう一方は音楽家であるエドワード・バストのように芸術などお金以外の価値を追求するグループだ。
本作の見どころは前者に属する人々が動き回って物語を展開させていく中でこぼれるブラックユーモアだろう。
それから、あなたがこっちへ転送してくれた連邦取引委員会からの手紙の件。X-L社が木から作ったマッチが簡単に折れて危険だという苦情が出ているという話?オーケー、いいですか、その路線で宣伝をするようにムーニーハムに伝えてください、安全性に配慮して折れやすい新設計にしたことにするんです、森でタバコを吸うときとかに……いえ、はい、そうですね、値上げをしましょう、ていうか、新たに改良を加えたわけだから当然でしょう……?(580ページ)
オーウェルの『政治と英語』では決まり文句で飾り立てた悪文が政治を腐敗させるとしていたが、『JR』ではその稚拙なパロディのように、うわべを取り繕っただけの広告文が粗悪品を市場に広めていく。
心にもないきれいごとを言いながら実は金儲けのことしか考えていない彼らの姿は、ほとんどが会話文のため登場人物の内面は分からないという文体上の仕掛けもあいまって、オーウェルのいう「光の反射で円盤のように見える眼鏡」の背後で人間らしさを失ってしまったような奇妙な存在に映る。
☆☆☆
しかしもう一方のグループ、お金以外の価値を求めて行動する人々も、ある意味でオーウェル的な状況に陥っている。
例えば作者ギャディスの分身と思しき作家志望のジャック・ギブズ。
長年取り組んでいる作品の執筆がなかなか進まず苛立つギブズに向かって、二回りほど年の若いローダがこう語りかける。
——あたし、友達にはモデルになるって宣言して、学校を出た後、すごく頑張って、花嫁学校みたいなところで化粧とか何とかを習ったんだけど、何回ヴォーグを買っても全然載ってないってみんなが怒ったんだよね、あたしってやっぱゼロみたいって。(...)で、結局、考えてみたら、モデルになろうと頑張ってる間ずっと、あたしはなりたい、なりたいっていつも言ってたモデルってものを憎んでたわけ、分かる?(...)てか、結局、今の自分でいいんだって気づいた、で、いつもなりたいなりたいって言ってたモデルのことはやっぱ大嫌いなんだって分かった。てか、あたしは頑張ってるつもりだったけど、頑張る分だけ本当の自分が嫌いになった、分かる?(750-751ページ)
これまでひたすら自由奔放に振る舞ってきたローダが突然内省的になって語るこのセリフによって、彼女は、モデルに憧れながら同時に憎んでもいた自分と同じように、ギブズも本当は執筆という行為を憎んでいるのだと示唆する。
もっともギブズにも自分で自分を騙しているという自覚はあるのだが。
——ああ、畜生、エイミー、どうせ俺は何をやっても駄目さ、そもそもやる値打ちのないことばかりなんだから、それか、やる値打ちはあるんだって、せめてそれが終わるまでの間信じようと努力はしてるんだ……(606ページ)
また、似たような心理状態にあるがその自覚があまりない例として、JRが通う学校の教育委員をしているハイド少佐がいる。
愛国者の少佐は核戦争に備えて自宅に設置したシェルターが自慢なのだが、その時代遅れの愛国バカっぷりを周囲にからかわれてしまう。
——ああ、見てるがいい、見てるがいいさ、いざとなったら同じ奴らがわれ先にとうちのシェルターに飛び込んでくるに決まってるんだ、見てるがいい……
——自分は歴史に置いて行かれたって感じたことはないのかな、少佐?
——置いて行かれた、歴史に置いて行かれたってどういう意味だ……
——君の大好きな民間防衛とかいう考え方はフラフープの流行と一緒にどこかに行ってしまった、核シェルターのブームも終わったんじゃないかと考えたことはない?(569ページ)
図星だったのか、このあと少佐は大いに取り乱すことになる。
自分でもうすうす感じていたが見ないふりをしていた事実、自分の愛国心が周囲から認められるどころか疎んじられているという事実をずばり言い当てられたからだろう。
本心を抑圧するギブズやハイド少佐の姿は『一九八四年』の「二重思考(ダブルシンク)」を髣髴とさせる。
二重思考とは、「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」をもって「故意にうそを吐きながら、しかしその嘘を心から信じていること、都合が悪くなった事実はすべて忘れること、その後で、それが再び必要となった場合には、必要な間だけ、忘却の中から呼び戻す」行為だ(ハヤカワ文庫『一九八四年』328-329ページ)。
その文庫解説でトマス・ピンチョンが書くとおり、「これは取り立てて目新しいことではない。我々みなが行っていることだ。社会心理学の分野では、“認知的不協和”として古くから知られていた」(同書488ページ)。
もっとも「F・スコット・フィッツジェラルドを筆頭に、<二重思考>を天才の証明であると考えた人もいる」ともピンチョンは指摘する。
『JR』の作者と同姓のアメリカ人歴史家ジョン・ルイス・ギャディスも、著書『大戦略論』の中で同じようなことを主張していた。
それではもう一人のギャディス、ウィリアム・ギャディスはどうだろうか。
二重思考はオーウェルやピンチョンがいうように認知的不協和として人の心を蝕むものだろうか、それともフィッツジェラルドやジョン・ルイス・ギャディスがいうように天才の証明だろうか?
おそらく『JR』の作者はどちらにもなると考えている。
JRのように他人を騙すため二重思考を使いこなす者は成功するし、ハイド少佐のように二重思考で自らを偽る者は破滅していく。
そして、ほとんどが会話文のため登場人物の内面は分からないという文体上の仕掛けがここでも作用し、彼ら彼女らが心に抱える空虚や矛盾は直接的に説明されないことでかえって強い印象を残す。
丁寧な心理描写を売りにする小説は多いが、二重思考に陥った人物の心理に入り込んだところで己の行動を正当化する言い訳だけが語られることになるだろう。
むしろ観察に徹することではっきりと見えてくるものがある。
『一九八四年』でも、二重思考の「完全無欠の体現者」(byピンチョン)として登場するオブライエンは主人公の目を通して描写されるだけだったが、その心のうちが語られないことが逆に彼の不気味さを際立たせていた。
もしオブライエンやJRの心理描写なんてものが作中にあったらその異様なキャラクターの衝撃は弱まっていただろう。
☆☆☆
そんなわけで『JR』の語り手は物語に介入せずに観察に徹するだけだから、何か教訓のようなものを語ってくれることはない。
それでも最後には、二重思考に陥りそうな現代人にはいくつかの対処方法があることを、登場人物の行動によって示してくれる。
私が気づいたところでは3つパターンがあるように思われるので、順に見ていこう。
1.自分を変える
僕はあなたがおっしゃってたことを思い出して、やる値打ちの無いことはたくさんあるなあと考えてました、そして突然、何もやらないことにしたらどうだろうって思ったんです。僕はずっとそれを恐れていた、僕はずっと、自分が作らなければならない曲があると信じていたんですが、突然、それをやめたらどうなんだろう、曲を作る必要なんてないのかもしれないって思ったんです、そんなことは今まで考えたことがなかった、ひょっとしたらそんな必要はないのかもって!(843ページ)
JRとともに本作の主人公といえるエドワード・バストは音楽家一族の生まれで、ビジネスの合間をぬってオペラの作曲に取り組んでいた。しかし無理がたたって衰弱し病院に運び込まれ、入院した部屋で上記引用のとおり発言する。
複雑な出自ゆえにあいまいなアイデンティティを音楽の才能を示すことで確立したいという動機や、従姉妹への叶わぬ恋心を作品に昇華したいという思いを考えると、彼の創作意欲は確かなものだったと言える。
それがJRに巻き込まれ、波乱の日々の中で芸術家以外の人々と交わり刺激を受けるうちに、自身の価値観も揺さぶられてしまったのではないか。
また、オペラの作曲が思いどおり進まないという創作上の行き詰まりもあり、音楽の道をこのまま突き進んでいいのかという悩みも抱えていたと想像できる。
そこで一度立ち止まり、これまでの価値観をリセットして自分がやるべきことを見つめ直すことで彼は二重思考の罠を回避できたのだ。
自分を変えるのには勇気がいるけれど、二重思考に陥らないためにはそれくらい思い切らないといけないのだろう。
ただ、作曲をやめると言いつつも、結末近くの様子をみるとバストは音楽の道を完全に諦めたわけではないように見える。
彼が音楽の世界に戻るのか、違うことをするのかは読者の想像に委ねられている。
しかし、
作品が面白ければそれでいい、僕自身はつまらない人間で結構!(692ページ)
と言うわりに多くの人からその人間的魅力を評価されるバストだから、個人的には、その強みを生かせるビジネスの世界に転身していったのではないかと考えてしまう。
ギャディスが1987年にニューヨークタイムズに発表した短編「JR Goes To Washington」では12年後のJRの姿が描かれているが、この背後で相変わらずJRにこき使われているバストがいると想像するのは容易だ。
2.周囲を変える
——(...)こっちへ来い、JMIは処分するんだぞ、聞いとるか?。
——いいえ。
——そして同族会社の調査を、今なんて言った?(873ページ)
エイミー・ジュベールは財閥一族のモンクリーフ家の出身だが、財閥が作った財団の名ばかりの管理者という立場にやりがいを見出せず教師として働き始め(そしてJRの担任として登場する)、結婚相手も親族の言うことを聞かずに自分で選んだ。
しかし結婚生活は既に破綻しているし、教師の仕事も自分には向いてないのではないかと悩んでいる。
物語の中盤、夫が国外に連れ去った子どもを取り戻すためにニューヨークを離れるところで物語の舞台から姿を消してしまうのだが、どうやらその後は自分を縛り付ける者たちを排除するために行動していたようだ。
そう、自分の信念を曲げることをよしとせず、かといって二重思考に甘んじて現状のまま生きていくつもりもないのなら、自分の信念が通じるように周囲を変えるしかない。
こう書くのは簡単だが、実際にそんなことを成し遂げるのは容易ではない。
そこでエイミーはある人物を味方につけ、邪魔者たちを排除するという計画を遂行する。
この人物こそ、一見すると財閥の経営陣の言いなりだが、そうと悟られずに水面下で着々と準備を進めていたわけで、二重思考の完璧な使い手と言っていいかもしれない。
上に引用した箇所は、それまでずっと従順だったその人物が突如反撃を始める瞬間なのだが(ネタバレして済みません)、たった一行でガラリと流れを変えてしまうという点が『一九八四年』のとあるシーンを思い起こさせた(もっとも『JR』と違い『一九八四年』ではそのシーンのあと恐怖の展開が待っているのだが(再度のネタバレ済みません))。
3.何も変えない。二重思考と付き合い続ける。
——タイトルを付けてやる、シンプルな言葉でな、新品同様、どうだ、『アガペー、唖然(アゲイプ)』、未使用のタイトル、どうだ。(747ページ)
著者ギャディスの分身と思しきジャック・ギブズは、エドワード・バストと違って最後まで創作を諦めた様子はない。
彼のこれまでの言動を考えると、ずっと「やる値打ちがあるのか」という疑問を抱きながら書き続けるという二重思考状態のまま生きていくのだろうと容易に想像できる。
だけど別にそれは珍しいことでもないし、悪いことでもない。
われわれ読者の多くも理想と現実との間で折り合いをつけながら生きているのだし。
それに、もしかしたら長い格闘の末に作品が完成する日が来るかもしれない。
実際、彼が書こうとしていた作品、自動演奏ピアノの歴史を軸にした
機械化と芸術に関する大著(872ページ)
になるはずだった『Agapē Agape(アガペー、アゲイプ)』という小説は、後年ウィリアム・ギャディス自身が完成させた。
(ギャディスは若いころから、人間が作り出す芸術の価値を揺るがしかねない自動演奏ピアノという装置に関心を寄せていたそうだ。『JR』に出てくるゼネラルロール社が自動演奏ピアノ用のピアノロールを製造しているという設定は偶然ではない。)
『Agapē Agape』はギャディスが1998年に死去したさらに後、2002年に出版された。
『JR』の出版から27年後のことであり、その間ギャディスは小説を2作発表している。
特に1995年発表の『A Frolic of His Own』では『JR』に続き2度目の全米図書賞を受賞しているが、『Agapē Agape』はそれよりもさらに時間がかかっている。
ギャディスほどの才能をもってしても『Agapē Agape』の執筆にはそれだけの時間を要したというべきか、そんなに時間がかかるならいっそタイトル含めて創作の方向性を見直した方が良かったのではというべきか…。
きっとギャディス自身、ギブズのように「これは挑戦し続ける値打ちのある作品なのか」と自問自答しながらも諦めずに執筆を続けたことだろう。
協力者とともに邪魔者を排除して周囲を変えたり、勇気を振り絞って自分の価値観を思いきり変えたりできる人間ばかりではない。
二重思考状に陥った自分を客観的に見て「まぁしょうがねえな」「もうちょっと粘ってみるか」と肩の力を抜き、ひとまず現状を維持するのも一つの手段だ。
ギャディスにもそのような日々があったと考えることは、少し励ましになる。
そして、物語を読むという行為は自分を客観的に見つめるきっかけになる。
人々の内面に寄り添う温かみのある小説もいいけれど、『JR』を読むと、このシニカルで突き放すような語り口の方が自分を冷静に見つめ直したいときには手助けになってくれるのではと思わされる。
私も、別に創作をしたいとか大した野望はないけれど、肩の力を抜いて生きていくためにこの小説は手放さずに持っていようと思う。
めっちゃ分厚くて重いから何回もは読み返せないけどね。