洋書を読む読書会

オンラインで読書会をしています

1回目の結果(パチンコ by ミン・ジン・リー)

さて、1回目の概要はこんな感じでした。

日時 7/3(金)夜
場所 津市内某所
参加者 3名

 

1人1冊ずつ本を持ち寄り、順番に紹介。
紹介した本はそれそれ次のとおりでした。
・私 Pachinko (Min Jin Lee著)
・Aさん 世界が100人の村だったら
・Oさん Lonely Planet Japan(ロンリープラネット社)

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前回の記事に書いたように、一般的な読書会のように本の内容について詳しく紹介したのは自分だけで、あとの2人は持って来た本をきっかけにおしゃべりをするという結果になりました。
まず今回の記事では、私がこの「Pachinko」をどのように紹介したのかを記録したいと思います。

 

☆☆☆

 

・この本を読んだきっかけ

植民地時代の朝鮮半島から戦後の日本までを舞台にした在日コリアン一族の物語。
主な舞台設定が日本であることに加え、全米図書賞最終候補にもなった作品ということで期待して読んだのですが、正直に言って自分は楽しめませんでした。
ちなみに7月下旬に邦訳が出るらしい。下旬てもうすぐやんけ。

 

・不満な点

なんかね、語り手がね、先にぜんぶ説明しちゃうんですよ。
小説に限らず映画であれなんであれ、物語なら「あえて説明しないこと」ってあるじゃないですか。
それは後々まで伏せておいてクライマックスで「実はこうだったんだぜ!」ババーン!ってやるための布石だったり、最後まで明かさずに読者の想像に委ねるためだったりするんですが。
なのにこの小説は、語り手がさらっと全部言っちゃうんですよ。

まず最初に引っ掛かったのが第1部第14章のエピソードです。
(本筋には影響しない部分なのでネタバレにはならないと思いますが気になる方は念のためご注意を。)

朝鮮半島から大阪に出稼ぎに来た姉弟が地元の教会に来るシーン。
姉が、親より年上の工場長のオッサンと食事に行ってお小遣いをもらっている。今でいうパパ活ですね(違)
弟はそれを辞めさせたいので神父さんに説得してもらおうとしている。
姉は、生活費だけじゃなくて弟の学費のためにもお金が必要だし、オッサンとは食事をしながら話を聞いているだけなので問題ないと釈明する。
けどその直後に、実は姉はオッサンにお酌をしたり口紅を買ってもらったりと結構危ういことをしている、とさらっと明かしちゃってるんですよ。地の文で。
登場人物(弟とか)がオレ実は見ちゃったんだよね~って秘密をバラすなら読んでいて違和感ないし、読者も「弟はカマをかけているだけで、本当は姉のいうとおりなんじゃないだろうか」と推測してはらはらする余地もあるんですが、地の文でそれを説明されちゃうともうそれを事実として受け止めるしかない。
その数ページ後、相談を受けた神父さんが解決策を提示するときに、それでも姉はオッサンに温泉旅行に誘われてちゃんと断ったという説明もあり(地の文ですけど)ここでこのエピソードは無事に終わるのですが、ここまで口紅のくだりを挟まないか出し方を工夫してくれたら緊張感をもって読み進められたのに!
なんでその一文をがまんできなかったの!
と早くも不満を抱きました。

その不満点がもっとも悪い形で出たと感じられる箇所が物語の後半、第3部に出てきます。
(こちらは割とネタバレなのでご注意を)
ある夫婦が登場するんですが、二人は長年セックスレスで、夫婦の一方がそれに悩む場面があります。
それから間もなくその人物は偶然に近所の公園がハッテン場になっているのを発見し、好奇心から何度か見に行くのですが、そこで偶然にも配偶者が同性と行為をしているのを目撃してしまいます。
これはその人物にとっても読者にとっても衝撃的な展開、のはずですよね。
ところが、その少し前の章で、その配偶者が同性愛者であることが地の文ではっきりと書かれてしまっているので読者にとっては驚きも何もありません。
しかもこの前の章では、同性愛者であることの説明をきっかけに配偶者の人物像が深く描写されていく…なんてことはなく、さらっと次の場面に進んでしまっている。
その程度の説明ならこのタイミングでする必要あった?と不思議に感じました。

特に印象に残っているのは以上の部分ですが、この小説の全体をとおして語り手が先回りして情報を出してしまう傾向が非常に強かったように思います。
まるで作者が「物語を進める前にこの設定も早く出しておかないと」と何かに追われているようであり、その説明の過剰さによって謎や余白がどんどん打ち消され、私はすっかり先を読み進めたいという意欲が削がれてしまったのでした。

 

・想定される読者は?

そうは言っても全米図書賞の最終候補作ですよ。
何かが評価されて候補に残ったに違いない。
じゃあいったい何が評価されたのか?と考えたときにひとつ浮かんだのが、これは日本を主な舞台にしているが本当に楽しめるのはアジア系アメリカ人なのではないかという仮説です。

第2部の後半で主要登場人物の一人が早稲田大学に進学するんですが、このあたり英文では大学のことをUniversityではなくWasedaと書いています。何度も。別に固有名詞で書かなくても良さそうなところまで。
なんでかなぁと最初は疑問だったんですが、そういえば中華圏で最も有名な日本の大学とは東大でも京大でも慶応でもなく早稲田大学だということを聞いたことがあります。
決して裕福ではない大阪在住の登場人物があえて東京の私大に進学するのは不自然な気がしますが、貧乏な移民の家庭なのに努力して名門校に入学した!というストーリーを強調するために進学先を早稲田にし、さらにWasedaの表記を多用したんだとしたら狙いはよく分かります。
となると、本書がターゲットとする読者像は、Waseda=名門校との文脈が通じる中華圏出身のアメリカ人であると推測されます。

ご先祖あるいは自分自身がアメリカに移民としてやってきて、さまざまな苦労を重ねてきたような読者なら、自分や一族の苦労を重ねながら感情移入して読めますよね。
私が本作を楽しめなかったのは、そのように移民として苦労してきた経験がなくて登場人物に感情移入できない分、先ほどの語り手に関する不満点に意識がいったからなのかもしれません。

 

☆☆☆

 

このようなことをもう少し端折って語りました。
語りすぎだよ!長いよ!
大人しく聞いていてくれた二人ともありがとうサンキューマイメンフォーエバー。

あらかじめ本書を課題図書にして全員が読んできていたらこのくらい語ってもいいし、ここからさらに意見を交換できたんですが、そういうスタイルにしてませんからね。
本書については一方的に私がしゃべって終わりになりました。

冒頭に書いたとおり、あとの二冊はどういう風に進んだかについては次回の記事に回します。

それにしても楽しめなかった本がなぜ楽しめなかったのかここまでしっかり言葉にしようと試みたのはこれが初めてだよ。いい経験になりました。